造化・・・勾玉作りの難しさ

ヒスイをパワーストーン扱いしたくない。

石笛や勾玉をスピリチュアルグッズやヒーリンググッズ扱いしたくもない。

縄文以来、数千年に渡り尊しとされてきたヒスイの歴史的存在の意味と、ヒトに興味を持っているからだ。

ヒスイがパワーストーンだと言うのであれば、何故、縄文人たちはヒスイ原石そのものを大事にせず、困難な加工をして大珠や勾玉を作ったのか?

天然自然が尊いのであれば、なぜ野に身を置かずして建物の中にヒトは花を活け、枯山水庭園を造るのか?

それは物質からモノを産み出したいというヒトの飽くなき欲求だと思う。

松尾芭蕉は、俳諧を造化と呼んだそうだ。

出来事をそのまま書いたり、描いたりするのではなく、ワタシを介在して新たに描く行為・・・。

 

ならば私は物質たるヒスイから、モノを産み出したいと思う。

ところがそれは生易しい行為ではなく、勾玉を作るたびに難しさを実感して苦悶している。

「コツさえ掴めば勾玉つくりは簡単で、プロなら1時間でつくれるよ!」と、同業者が初心者に教えている場面にいわあせたことがあるのだが、簡単なことしかやってないのだろうね・・・。

少なくとも私は、つくればつくるほど新たな課題がでてきて、簡単と思ったことはないナ。

曲面だけで構成された勾玉、流れるような滑らかな曲線を完璧に造り得た時、ヒスイは物質からモノに産まれ変わってくれるのだが・・・。

 

 

投稿者プロフィール

縄文人見習い
縄文人見習い
ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。

造化・・・勾玉作りの難しさ”へ0件のコメント

  1. みどり より:

    Unknown
    職人さんのこだわりがあるのは、良いことだと思いますし、往々にして職人さんには、鉱物にパワーを見いださない方がいらっしゃるとは思います。

    しかし、パワーストーンであると感じることと、加工すること、もしくは加工されている状態の石を求めることには、何の矛盾もないと思います。

    原石のままでは、家に飾ることはできても、持ち歩いたり、身に付けるのには適していません。
    その石のパワーを信じて、身に付けたいからこそ、加工する(加工されたものを求める)のではないかと、私は考えています。

  2. 縄文人(見習い) より:

    Unknown
    みどり様

    身に着けるだけであればポーチに入れたり、原石に孔を開けて身を飾ればいい訳で、あえて勾玉を作る事の意義を考えています。
    ある同業者から、お客さんはパワーストーンのヒスイが欲しいのであって、勾玉の形や研磨は適当でいい、とまで言われた事が忘れられません。
    特に私は作り手として、そのような勾玉を「勾玉の形をしたヒスイ」と呼び、自分はパワーストーンとしてヒスイに寄り掛からず、「ヒスイの勾玉」を造る事を職人の矜持に据える、という決意を籠めた投稿でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です