古代の勾玉の加工地を推理する!・・・玉依比賣命神社に奉納された玉類
正月に「大勾玉展」の図録を読み込んだおかげで、朧気ながらも勾玉の編年(へんねん:時系列に加工地を整理すること)が掴めてきて、信州の玉依比賣命神社に奉納された勾玉の加工地が推測できるようになり、面白いことになってきた。

右の箱に納められた瑪瑙の勾玉は、山陰系の古墳時代後期の特徴を持っている

ヒスイの勾玉は左端上の緑色の定形勾玉は北部九州系の弥生時代の伝世品、他は北陸東部系の古墳時代前期~中期のものが多いようだ。
これらが持ち運び込まれたルートは、糸魚川の姫川ルートは多少もあったにしても、上越市の関川から斐太遺跡群を経て、信州の広大なハラで馬の放牧地を開拓していったグループによるものではないか?という私の仮説が濃厚になってきた。

玉依比賣命神社に奉納された玉類の大部分は、ちかくの「大室山古墳群」をくずして田畑にした時に出土したものが奉納されたもの。今ならオークションに出して金儲けする人もいるかもしれないが、昔の人はバチがあたると神社に奉納したのだ。
北九州のアズミ族がヌナカワ姫を頼り、姫川を遡って信州に入植したのが安曇野であるという説もあるが、それなら糸魚川地域に威信材や馬具が出土せず、古墳もないのは何故?という疑問が出てくるのは当然。
「ヌナカワ姫と大国主命の古代のラブロマンス」で宣伝されているような「コシとイズモの連合国家が北陸から山形まで支配していた」どころか、糸魚川地域は古墳時代の流れの圏外であったらしいことが伺えるのだ。
この点、少なくとも関川ルートの斐太遺跡群は、国内最大級の弥生時代の玉作遺跡と環濠集落、そして小さいながらも古墳群があるので、弥生中期から古墳時代にかけての時流の圏内であった蓋然性は高い。
関川ルートだけではなく、富山から飛騨を経て信州に至ったルート、天竜川ルートも忘れてはいけない。
わたしは律令制で整備された延喜古道(えんぎこどう)に注目していて、このルートは40キロを目安に驛(えき:馬屋)を配置した国道で、奈良時代に急にできた訳でもないだろうから、延喜古道沿いの古墳時代の遺跡を調べてみる価値はある。
出土品の特徴を時系列で加工地別に区分した編年は、考古学者の地道な研究の積み重ねの賜物。「大勾玉展」の関係者に感謝!
投稿者プロフィール

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ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。
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