かって庶民が日常つかいをしていた漆器があった・・・一器多様の典型のような合鹿椀(ごうろくわん)

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0004990271_00000&fbclid=IwY2xjawEc0chleHRuA2FlbQIxMQABHXnpJttskmbzxrqN_B1YtucrWv5c14oghDNph1CBCp8gBNgewiA7FJ6aTg_aem_Ece_QFPqba_K-OG2zGTK8w

20年ほど前にになるが、私が最初に買った漆器は飯わんと丼の中間のようなサイズの、一器多様の典型のような合鹿椀(ごうろくわん)だった。
高い高台は庶民が膳をつかわず、土間や地べたに置いていた時代の名残りで、ご飯なら優に1合が盛れるほど大ぶりなのは、労働の合間に飯の上に菜をのせて掻き込んで食うためであったものか?
食後は禅僧のように、白湯をいれて箸でつまんだ漬物で汚れをふきとってから飲んでいたのかも。
実用一点張りの合鹿椀から、庶民の質素な食生活を読み取れる。
ただしこの椀で白米が食われていたとは思えない。
戦前まで東京以外では白米は庶民の口にはいらず、多くは麦・稗・粟・小豆・大豆・大根・芋をまぜて増量した「かて飯」が主食で、いわゆる銀シャリは冠婚葬祭の時だけのご馳走だった。
庶民が日常つかいする椀だから塗りも簡素だったらしいが、語源を調べたら現在は能登町に編入された柳田の合鹿の木地師たちがつくって広まったものであるらしい。
こんな時にNHKアーカイブは重宝する。
ちなみに私の合鹿椀は現代の美品で、確か「輪島キリモト」さんから通販で購入したものだと記憶しているが、輪島漆器販売義援金プロジェクトをきっかけにお世話になることになったのも奇縁。
 
 

 

投稿者プロフィール

縄文人見習い
縄文人見習い
ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。

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