形見の軍刀で祖父を偲ぶ・・・インパール戦を生きぬいた祖父の太平洋戦争
母の実家に盆の墓参りしたついでに、子供の時いらい久しぶりに蔵のなかをみせてもらった。
見たかったのは祖父の軍刀と馬具だが、軍刀と指揮刀はすぐにみつかっても馬具は捨てたらしい。

上が軍刀で下が指揮刀。指揮刀は主に儀礼につかった模擬刀。

軍刀は俗に「軍曹刀」と呼ばれる官給品なのだが、透かし彫りの鍔は凝り性の祖父が自分で替えたものか?
木綿の組紐の下げ緒が鍔にむすばれているので、刀身は3㎝ほどしか確認できなかったが、刃引きされて使えない状態。
祖父は日中戦争の前に陸軍に招集され、高身長だったので乗馬に適していると、輸送をになう輜重隊に配属されたと聞いている。
二度目の招集で下士官の最高階級の曹長を任ぜられたので、田舎では異形のマントに半長靴(膝下のブーツ)姿で帰省してくると、駅から女学生がゾロゾロと後をついてきたというくらいかっこうよかったらしい。
顔も三船敏郎と山村惣を足して二で割ったような(本人談)の男前だったから、生前の祖母は一緒に歩くとジロジロみられて恥ずかしかったとノロけていたw
太平洋戦争の時に三度目の招集で南方の激戦地を転戦し、インパール戦の最前線から敗走してビルマ戦に加わり、マンダレーで終戦。
本人は戦争について一切語らなかったので、この情報は祖父が亡くなった時に、元部下だった方からの弔問の手紙の記述と、新潟県庁から取寄せた祖父の「兵籍簿」と「部隊行動履歴」による。
インパール戦の兵隊は各自が3週間分の食料と銃器で40キロもの荷物をかついで、雨季でぬかるみになった未踏のジャングル、標高3千メートルの山岳を越え、最前線のコヒマに到着する前に食料が尽きかけて「飢餓地獄」がはじまった。
敗走時となると栄養失調とアメーバ赤痢などでバタバタと兵士は倒れ、敗走ルートは「白骨街道」と呼ばれた。
インパール戦の戦死者の7割が餓死・傷病死という異常事態。
生き残ってビルマにたどり着いた兵士は、ガリガリにやせ細り、軍服は破れ朽ちたフンドシ姿が多かったと聞く。
それでも万が一に配給があった時のために、飯盒だけは命の綱として捨てなかったが、ビルマでも激戦がまっていた。

蔵で軍刀を見た時におもったのは、まさかこんな状態で祖父が軍刀やら指揮刀を持っていたのだろうか?後方に置いてきたんだよね?という疑問。
女学生の心をつかんだかっこういい祖父は、半長靴を履いて「白骨街道」を敗走してきたのだろうか?
多くのむごたらしい死に直面し、かっては「戦争病」とよばれたPDS母の実家に盆の墓参りしたついでに、子供の時いらい久しぶりに蔵のなかをみせてもらった。
見たかったのは祖父の軍刀と馬具だが、軍刀と指揮刀はすぐにみつかっても馬具は捨てたらしい。

上が軍刀で下が指揮刀。指揮刀は主に儀礼につかった模擬刀。

軍刀は俗に「軍曹刀」と呼ばれる官給品なのだが、透かし彫りの鍔は凝り性の祖父が自分で替えたものか?
木綿の組紐の下げ緒が鍔にむすばれているので、刀身は3㎝ほどしか確認できなかったが、刃引きされて使えない状態。
祖父は日中戦争の前に陸軍に招集され、高身長だったので乗馬に適していると、輸送をになう輜重隊に配属されたと聞いている。
二度目の招集で下士官の最高階級の曹長を任ぜられたので、田舎では異形のマントに半長靴(膝下のブーツ)姿で帰省してくると、駅から女学生がゾロゾロと後をついてきたというくらいかっこうよかったらしい。
顔も三船敏郎と山村惣を足して二で割ったような(本人談)の男前だったから、生前の祖母は一緒に歩くとジロジロみられて恥ずかしかったとノロけていたw
太平洋戦争の時に三度目の招集で南方の激戦地を転戦し、インパール戦の最前線から敗走してビルマ戦に加わり、マンダレーで終戦。
本人は戦争について一切語らなかったので、この情報は祖父が亡くなった時に、元部下だった方からの弔問の手紙の記述と、新潟県庁から取寄せた祖父の「兵籍簿」と「部隊行動履歴」による。
インパール戦の兵隊は各自が3週間分の食料と銃器で40キロもの荷物をかついで、雨季でぬかるみになった未踏のジャングル、標高3千メートルの山岳を越え、最前線のコヒマに到着する前に食料が尽きかけて「飢餓地獄」がはじまった。
敗走時となると栄養失調とアメーバ赤痢などでバタバタと兵士は倒れ、敗走ルートは「白骨街道」と呼ばれた。
インパール戦の戦死者の7割が餓死・傷病死という異常事態。
生き残ってビルマにたどり着いた兵士は、ガリガリにやせ細り、軍服は破れ朽ちたフンドシ姿が多かったと聞く。
それでも万が一に配給があった時のために、飯盒だけは命の綱として捨てなかったが、ビルマでも激戦がまっていた。

蔵で軍刀を見た時におもったのは、まさかこんな状態で祖父が軍刀やら指揮刀を持っていたのだろうか?後方に置いてきたんだよね?という疑問。
女学生の心をつかんだかっこういい軍服姿の祖父は、半長靴を履いて「白骨街道」を敗走してきたのだろうか?地下足袋に履き替えてたのか?
多くのむごたらしい死に直面し、かっては「戦争病」とよばれたPTSDの症状は見られなかったようだが、どんな想いで戦後を生きたのだろう?
こう思うと哀れでならない。
これまで何冊も関連本を乱読してきたし、祖父の「兵籍簿」と「部隊行動履歴」を読んでもわからないことばかり。
戦争を知らない世代は、永遠に戦争体験者の苦しみや哀しみはわからず、情報をあつめて想像するしかないのだ。
SNS情報だけで戦争をわかったつもりになってはいけないネ。
投稿者プロフィール

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ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。
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