ヌナカワ姫の夫はヌナカワ彦?・・・古代風ペア勾玉首飾り「ヌナカワ姫・ヌナカワ彦」
工房改装中に注文をうけてパーツ取りのためにバラしてあった、ペアの古代風首飾り「ヌナカワ姫・ヌナカワ彦」を復活させた。

手前がヌナカワ姫、奥がヌナカワ彦。水晶の切子玉と出雲石(実際は緑色岩)の管玉と丸玉は、昵懇をいただいている考古学者から古物と偽って転売される恐れがあると注意されているので、非売品にしている。

標高1,200mほどの独立峰の黒姫山の頂上が三つに分かれているが、神代、黒姫山の山頂に、ヌナカワ彦・黒姫・ヌナカワ姫の三座が鎮座と口碑にある。
その後に麓の大沢村、ヒスイ峡のある橋立、糸魚川市街地の山崎(稚児ケ池のある京ヶ峰の麓?)、最後に現在の一の宮に鎮座する奴奈川神社に遷宮したというのが、ヌナカワ姫を祀る神社の口碑の概要。
黒姫はヌナカワ姫のことなり・黒姫はヌナカワ姫の母神なりという口碑もあるので、ヌナカワ族の族長夫婦であるヌナカワ彦とヌナカワ姫が、世代交代で娘のヌナカワ姫を襲名させた後に、上皇后のような地位の黒姫を名乗っていた女系社会だった可能性がある。

ヌナカワ姫は明るい色調で女性っぽく
ヌナカワ姫のメームバリューに比べて知られていないヌナカワ彦を世に出したいためと、来客にヌナカワ姫伝説を説明するためにペアの首飾りをつくったのである。

ヌナカワ彦は暗い色調で男性っぽく
ただしヌナカワ彦らしき伝説は、「出雲の八千鉾神がヌナカワ姫に懸想して、ヌナカワ姫の夫である松本の男神が戦いを挑んで破れて首をはねられた」くらいしかなく、ヌナカワ彦と松本の神は同一神なのかは不明。
ヌナカワ姫の夫を松本の神とするのは、縄文から続く信州との密接な関係を伺わせるものの、武田信玄の時代までの松本は深志(深瀬)と呼ばれていたはずなので、この口碑は近世になってから変容、あるいは追加されたように思う。

どちらも中央のヒスイ勾玉はかなり希少なヒスイ製。高く売れると思うが、今後、入手できるかどうかが微妙なので手元に残しておきたいですからねぇ。
謎の古文献『越後風土記節解』には、奴奈川神社の祭神を奴奈川彦命・黒姫命・奴奈川姫命とあるようだし、江戸時代までの奴奈川神社は柳田権現、柳形明神と呼ばれていたようだ。
明治の終わりに弥彦神社の宮司が、歴史ある神社なので郷社から県社に格上げを嘆願して大正時代に県社となったことが「西頸城郡誌」に記述されているので、この時点でヌナカワ姫の夫神をマイナーなヌナカワ彦からメジャーな八千鉾神にかえたのかも?
では黒姫の名の由来は?

黒姫とは娘にヌナカワ姫の地位を譲ったヌナカワ族の上皇后のこと?
わたしのレベルでは古語で田の畔を意味するクロくらいしか見つけられず、ことによるとクロヒメとは稲作を司る畔(クロ)の女神のことか?と仮説をたて、記紀研究者の三浦祐之先生などに教えを乞うているが、推測の域はでないのですな。
あとから「糸魚川市史」を読んだら、編纂者の青木重孝先生が出雲から追われたヌナカワ姫がお隠れになった「稚児ケ池」は、里の水源として祀った可能性を書いているのを見つけたので、まんざらでもない。
そして!
拙宅がある「笛吹田遺跡」から冬至の朝日が、神備山である稚児ケ池のある京ヶ峰から昇ってくる旨の「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」とする論文を書いた考古学者がいることを知った。
もちろん仮説だが、「笛吹田遺跡」と稚児ケ池を古代ヌナカワ族の重要な地域とする点で面白く、なんか繋がってきている。
古事記や風土記ばかりを資料とするのは片手落ちで、子々孫々と伝承されてきた地元の口碑もまた侮れない資料。むしろ考古資料と対応させると口碑の方が整合性はある。
投稿者プロフィール

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ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。
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