ご先祖様は「初代テロリスト藤原」だった!・・・ファミリーヒストリー遊び

父方の婆さんの先祖は、戦に敗れて越後に落ちのびてきた武州の武将だったと聞いていたので、正月に先祖をさかのぼるネットサーフィン遊びしたら藤原鎌足まで遡った!・・・藤原氏を自称する武将だから当たり前だw

「乙巳の変」の主犯として、中大兄皇子と共に本邦初のテロリストとして、歴史に名をのこしたお方でござらっしゃいますわい!我がご先祖様はテロリスト藤原鎌足様也ぃ~!

苗字に藤がつく人は藤原氏の親戚筋ということになるが、新日本プロレス時代のプロレスラーの藤原喜明さんは「テロリスト藤原」と異名をとっていたのも納得であるw

いくつにも枝分かれした藤原氏の中で、鎌倉時代の「吾妻鏡」には源頼朝の信頼が篤かった逸話の記述と、「曾我物語」には頼朝の警護をする御家人として登場するらしい、野本基員(のもともとかず)が家祖であるらしい。

基員は武蔵国比企郡野本村(現在の東松山市野本)に居住したことから、藤原姓から野本姓に改めた野本姓のルーツなので、全国の野本さんとも親戚ということになる。

中世には有名無実になっていた称号とはいえ、能登守に任じられた子孫もいたようだから、能登とのつながりもちょっとだけあるではないですか。

しかしながら13世紀後半の元寇の頃には、野本姓の武将の記録が途絶えてしまうそうだから、没落したのかも???

そこでフシギな話し。

神奈川藤沢市に住んでいたころ、北条政子の別邸址の豪邸に住むお金持ちから、なぜか気に入られてお世話になっていた。

ある時、その筋では有名らしい人から、その方とは前世に北条政子を護る近侍の主従関係だったご縁があり、先祖のひき合わせで藤沢市に来たとのだと、唐突に言われたことがある。前世を見てくださいと頼んだわけではなく、酒の席で急に言われたのだ。

前世の主君?だったと聞く北条政子様

わたしは証明しようもない前世がどうのといったことに興味はないから、当時は笑って聞き流していたがホントっぽくなってきたぁ。

そういえば拙者は、若い頃から雰囲気が武士っぽいと言われ、どこに行っても山田氏(やまだうじ)と呼ばれてござわりましたわ・・・。

で、時代は室町時代に下って、野本基員の直系か分家筋かは不明ながら、婆さんの実家の先祖の野本徳右衛門の登場だ。

野本村の領主だか地侍だったかの徳右衛門さんは、関東管領の上杉憲政の臣下として、天文年間の「河越城の戦い」で北条氏に敗れ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、永禄11年(1568年)に、わたしの出生地の頚城郡西浜寺町(現在のヒスイ海岸西側)に土着。

徳右衛門さんは塩田と海産物の運輸業をはじめたそうだから、謙信が信州に塩を送った「義の塩」の生産と運搬を担っていたかも。今でも婆さんの実家の屋号は、徳右衛門が訛ったトクヨムだ。

徳右衛門さんは、信州への塩の道の「虫川関所」の株も保有して、二隻の船をもつ分限者となり、寺町区には野本姓が多いことから、糸魚川地域の野本姓の草分けであったようだ。

ところが明治に塩の専売制がはじまると家運は傾きはじめ、放蕩三昧の当主がいたりもして、昭和には栄華の痕跡は微塵もない半農半漁の暮らしに没落して現在に至りまするw

もっとも日本人の家系の多くが四大氏姓の「源平藤橘」がルーツとなるのは、東アジアの儒教思想の影響で、戦国時代の成りあがった出来星大名たちが権威付けのために家系図をつくったり、買ったりしていた名残りだろう。

徳右衛門さんが野本基員の本家筋であったのか傍流であったのかは不明だし、基員さんにしろ本家藤原氏の傍流であるやも知れず、家系の正当性は誰も証明できないので、面白半分の雑談ネタくらいに考えておきまでょうねぇ。

しかし、わが家系が「初代テロリスト藤原」につながるとすれば、時代の波に翻弄されつづけて徐々に衰退していったファミリーヒストリーになる訳で、多くの日本人も同じことだろうネ。

全国の藤原さん、伊藤さん、野本さん、仲良くしよ~。

栄枯盛衰 会者定離 諸行無常

朝の紅顔 夕の白骨 なんまんだぶなんまんだぶ

#ファミリーヒストリー #ご先祖様は藤原鎌足 #テロリスト藤原 #四大氏姓 #源平藤橘

投稿者プロフィール

縄文人見習い
縄文人見習い
ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。

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