光と影のマダラな人間なるもの・・・黒澤監督作品「羅生門」
1950年に公開された黒澤作品「羅生門」の3割くらいは法廷場面で、4年後に公開された「12人の怒れる男」に影響を与えたらしいのだが、法廷劇映画のリストに載っていないのは、人間の業に焦点を当てた文芸作品として評価されているから、と思う。

「世界で初めて太陽を撮った映画」と評価もされるが、わたしは黒澤監督がなぜ、宮川キャメラマンに禁をやぶって太陽を撮らせたのかの目的に興味が湧く。

現在の法廷にあたる、検非違使のお白州の場面では、証言者と容疑者は烈日にさらされ、裁判官に相当する検非違使は写らず、その視座にいるのは映画の観客で、つまりは観客に「あなたはどう考える?」と問いかけているのだが、黒澤監督は何を問いかけているのか?
「人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない・・・虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ・・・人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ」と、自伝「蝦蟇の油」に書いている。
それを映像で表現する手段として、人間の心の裡を象徴した、光と影のコントラストを強烈にする必要があった、だから太陽を撮らせたのではないか?
しかし光と影のコントラストだけでは、「人間の奇怪な絵巻」が、平明な善悪二元論になってしまう。
原作「藪の中」を書いた芥川龍之介は、藪の中の木洩れ日がマダラになった明暗をつくることに、「人間の奇怪な絵巻」を投影させたのではないか?と、逆なぞりしてみる。

暗い藪に潜み、烈日の向こうを伺う多襄丸(三船敏郎)は、獲物をねらうケモノそのものだ。

夫(森雅之)の目の前で、多襄丸に凌辱された真砂(京まち子)は、冷笑する夫への羞恥心から最初は掌で顔を隠すが、よろめき離れてから指をひらき、「掌で藪をつくって」烈日の向こうにいる夫を冷徹な目で見つめる。
橋本忍が小説「藪の中」を基にして書いた脚本に、映画としては尺が短すぎると、小説「羅生門」と組合わせた黒澤監督の着眼がすばらしいのだが、この要素があるから法廷劇の類型に収まらず、深淵な人間ドラマになっているのだろう。
また冒頭で杣売り(志村喬)が、森の中を歩く場面のBGMに意表をついたボレロをつかい、徐々に映像の内圧を高めていくアイデアを着想したのは黒澤監督で、期待にこたえた早坂文雄の音楽もいい。
巫女に憑依した夫の声のバックに、回転を落とした謡曲(?)を流すアイデアは黒澤監督なのだろうか?
そして、正直な杣売りの隠し事を見抜くのが、検非違使ではなく、小悪党の下人(上田 吉二郎)であることは、実に皮肉が効いている。「蛇の道はヘビ」というヤツ。

いやったらしい悪人ぶりを発揮する下人の存在は、正直でも隠し事をした杣売り、人の理想を信じてやまない旅の僧(千秋実)と三人一組でこそ、明暗が織りなすマダラな人間模様になり得、黒澤監督の映画つくりとキャスティングの巧さと、脇役の名演に感心する。
ベイルマン監督作品「処女の泉」なども森の場面で太陽を撮っていて、「羅生門」に似てはいると感じていたが、最近よんだ古い映画雑誌で淀川長治も同じ感想を書いていた。
しかしベイルマン監督は、魔女や妖精が棲むような北欧の森の神秘さを描いてはいても、「羅生門」に内包された深淵さには遠く及ばず、ご本人も「クロサワを表面的に真似しただけ」と、自嘲していたようだ。
善悪二元論ではとらえようもない、「藪の中」のように明暗がマダラになった人間なるもの。

しかも藪の中の光と影は一定しておらず、本作でたびたび描かれているように、風で揺らぎもするし、人の善性と俗性もまた揺れ動く。

下人から産着をはがされた捨て子を杣売りが抱き、雨のあがった羅生門を立ち去るラストは、立川談志師匠の言葉を借りると「人間の業の肯定」か。
映画好きだった談志師匠に聞いてみたいものだ。
高校生の時に深夜放送で観た「羅生門」の問いかけに、現在はこのように考えるようになっている。
投稿者プロフィール

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ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。





