特攻隊員だった黄門様再び・・・戦後の苦衷
以前に水戸黄門俳優で全国区の人気俳優になった西村晃と茶道裏千家の千玄室元宗家が特攻隊員だったことを投稿したが、Facebookの映画コミュニティサイト用に鶴田浩二の逸話も加えた投稿がバズってるのでブログにも転載。
専門用語を知らない生半可なミリタリーオタクが、投稿を読み違えて揚げ足取りコメントしてきたが、「いいね」が7つもついてた。そのコメントの尻馬にのって「爆撃積載量がちがう!ちゃんと調べろ!」と荒しコメントしてきたアホもいた。
「『爆撃積載量』なんて軍事用語は聞いたことなく、意味がわからないし、トラックじゃあるまいに積載量はヘンです。航空機の爆弾は『爆弾搭載数○○爆弾×○発』と表記します。かなりハズカシイコメントなので保存してネタにさせてもらいますネ!w」と返信したら、自分からコメントを削除しやがった( ´艸`)
以下は本文
西村は学徒動員で兵役につき、特攻部隊の「徳島白菊隊」に配属され、沖縄戦で三度の出撃をするもエンジン不調で引き返して終戦をむかえた経歴をもつ。ちなみに「白菊隊」は志願ではなく、飛行教程終了後に否応なしの編入だった。

西村さん演じた狡猾な悪役や軍人は、現代の俳優とは比較にならないリアリティがあったが、軍隊時代にモデルがいたのではないだろうか。時に鋭く光る眼光も、修羅場をくぐり抜けた経験があったからかも知れない。陸海軍航空隊で特攻隊員の教育係として隊員たちの世話をしていた三船敏郎然り。

隊員たちに与えられた特攻機は「白菊」という練習機で、両翼に250キロ爆弾を一発づつ懸架した計500キロの爆弾で爆装すると、最高時速は180キロであったので、命じた側には「これでは逆にアメリカの駆逐艦に追いかけられるぞ」と、笑い飛ばした幕僚もいた。
「徳島白菊隊」の同期で生き残ったのは、茶道の裏千家宗家の跡取りの千玄室さんだけで、千さんの眼光もまた鋭かった。

出撃命令を待つ間、千さんは飛行場の隅で野点して、仲間の隊員たちに茶をふるまった。
西村さんが「お袋にあいてぇなぁ・・・」と突然たちあがり、故郷の方角をむいて「おかあさ~ん!」と叫んだら、他の隊員たちも次々と「おかあさ~ん!」「おかあさ~ん!」と声を限りに叫んだと、千さんは回想する。その千さんも昨年にお亡くなりになった。

鶴田浩二も学徒出陣組で、海軍航空隊の整備士官だったが、戦後に映画会社が「特攻隊の生き残り」と宣伝したため、関係者たちから卑怯者、ウソつきと呼ばれても、言い訳せずに黙っていたらしい。
しかし遺族会に献金したりしていたので、しだいに元軍人たちも鶴田の苦しい立場や、心情を理解するようになっていったが、その一端が俳優の池部良のエッセイに書かれている。
池部は学徒出陣制度の前に招集されて陸軍にいたが、大学出であったので士官候補生の試験を無理やりさせられ、終戦時にはインドネシアに駐留する部隊の中尉になっていた。
戦後の池部が戦友会から、当時は人気絶頂だった鶴田に軍歌を歌ってほしいと懇願され、陸軍と海軍でちがうし、所属する映画会社もちがい、顔見知り程度であったので恐る恐るゲスト出演を依頼したら、鶴田は「わたしは海軍でしたが、陸軍さんもお国のために戦った戦友じゃないですか」と快諾。
戦友会での鶴田は池部先輩と立てて呼び、「同期の桜」を歌たい、参加者全員の合唱になったそうで、以後は鶴田ちゃん、池部先輩と呼び合う仲になった。
戦争は終結はしても、元軍人や民間人にも記憶が刻まれているということですネ。
終戦時に小学生だった母のところに新聞記者が取材に来てたから、そのうちに新聞に出るかも。田舎の小さな集落にも戦争の傷跡は残っている。
投稿者プロフィール

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ヒスイの故郷、糸魚川市のヒスイ職人です。
縄文、ヒスイ、ヌナカワ姫の探偵ごっこをメインにした情報発信と、五千年前にヒスイが青森まで運ばれた「海のヒスイ・ロード」を検証実験する「日本海縄文カヌープロジェクト」や、市内ガイド、各種イベントの講師やコーディネーターをしています。
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